『故人になられた先生・会員を偲ぶ』
<本コーナー設置の経緯>
平成27年赤川先生のご逝去を機に、有志の方々より、赤川先生への想い出を掲載して欲しいとの要請をいただき、検討致しました結果、実現に当たっては他の先生方並びに同窓生の方々にも範囲を拡大し掲載することにしたものです。
<原稿提出先>
原稿は提出先が指定されている場合は指定の宛先へ、指定されて いない場合は機械クラブ会長並びに総務部会長(ktcm@ktcm-kobe.com)宛にご投稿を お願い致します。皆さまからのご投稿をお待ちしております。
1.赤川浩爾先生を偲んで 2017年12月10日
1)追悼文集
2)赤川浩爾先生を偲ぶ会
3)追悼文集「恩師 赤川浩爾先生 を偲ぶ」 お供えのご報告
2. 島一雄様(1945年卒業 P5)を偲んで 2025年10月
1)機械クラブ顧問 井上 理文(1954年卒業M②)
島 一雄先輩のご逝去を悼み、心からお悔やみ申し上げます。
私と島先輩の出会いは、私が先輩の三浦春信氏(M11)の会社に入社して間もなく、安宅産業(現存しない)を訪問し、島先輩(P5)を紹介され、水処理関係のご指導を戴いたのが最初の出会いでした。
その後、機械クラブの会員増強の方法として、三浦氏がゴルフ同好会を立ち上げられ、一時、会のお世話役などをされて、中西、鳴滝先生方も参加され和気藹々と親睦を深められました。
島先輩は、田中和鶴海(M21)機械クラブ会長の幹事長として会の運営全般を取り仕切られていました。
当時は、2年に1回会員名簿を発行し、名簿に会員有志および会社の協賛広告を掲載して、この広告掲載費が機械クラブの運営費に充てられて、会計全般を管理処理されていました。
機械クラブの組織が大学卒業年代に移行してからは、機械クラブ顧問として支えていただくと共に活動の主力をKTCにおかれて、数々の貢献をなされました。旧神戸高等工業、神戸大学工学部西代学舎の跡地への記念碑の設置にも尽力されました。
クラブ精密の会長として、精密機械科の中心として晩年まで活躍されました。
かずかずの功績に対して「第1回工学功労賞」(2017年)を受賞されました。
100歳の長寿をまっとうされ、直前までお元気で会合にも参加され、温和なお人柄で我々後輩をご指導いただきました。
深く感謝とお礼を申し上げます。
安らかにお休みください。ご冥福をお祈りいたします。
2)機械クラブ顧問 永島 忠男(1961年卒業M⑨)
島一雄様のご逝去を聞き、深い悲しみに包まれました。
ポートピアホテルで100歳のお祝い会の時に、お元気でお目にかかったのが、最後となりました心よりお悔やみ申し上げます。
島様とは、私が1995年頃三月会の会長をしていた時に、機械クラブ総会でお会いしたのが、初めてであり、それ以後30年間 機械クラブ先輩としてまた人生の先輩として、面倒見がよく、いつも温かいお言葉と心のこもった助言を頂いておりました。
KTCの機関紙「私の履歴書」のインタビューをした時に、旧制神戸高等工業高校に入学後すぐに戦争で士官学校に配属され、ほとんど学校に行かずに卒業されたこと、卒業後安宅産業(株)に入社されたが、安宅が倒産時には自分のことより、まず後輩の面倒を見られ、私の知人も御世話になったよしで、大変ご苦労なさった事を知りました。
また機械クラブの思い出には、私が会長の時には総会の運営の助言を頂いた事や総会後の懇親会では、いつも旧制の校歌を歌い、そのあと2次会で、ワインバーや居酒屋に連れて行ってもらった事、また長きにわたり亡くなるまで、クラブ精密の代表幹事を務められ、私もクラブ精密主催の講演会や見学会に誘って頂き、旧制の先輩の方々と親しくさせて頂いた事、ゴルフ同好会では島様のホームコースの三田ゴルフクラブでコンペを行ったとき、同じ組で回らせてもらい、食事の時にクラブの名物のハヤシライスを食べながら、初期のゴルフ会は、先輩からのご寄付や会社からの商品提供などあり、非常に豪華なものであったとお聞きしましたなど多くの思い出があります。
特に入院されていた時にお見舞いに行った時も、院内でリハビリの看護師や患者様を集めて談話会をするなど、常に周囲の人を大切にし、誰にでも優しく接してくださった姿勢に深く感銘を受けました。
あの穏やかな笑顔と、優しく親切なお人柄は今も私の心に残っております。安らかにお休みください。ご冥福をお祈りいたします。