神戸大学KTC機械クラブ
寄稿文集:思い出の架け橋

 
  神戸工業専門学校から神戸大学工学部機械工学科へ
(西代時代の思い出)
 
  M@ 山村 裕

 太平洋戦争が激しくなる昭和19年(1944年)、旧制中学の3年生であった科学好きの少年は学徒勤労動員によって神戸市西部各地で防火用貯水槽を造っていた。その時に仰ぎ見た西代(注:下記)の地に建つ旧制神戸工業専門学校(この年に神戸高等工業学校から名称変更)の赤い屋根の外観を今でも強く覚えている。年は移り、終戦後少し経った昭和22年(1947年)4月、工専に入学し、3年次卒業を待たずに、昭和24年(1949年)の2年次修了で新制神戸大学工学部機械工学科を受験、1回生として入学、昭和28年(1953年)3月に卒業した。当時の少年は、今や80歳代半ばになった。忘却の彼方にあった若かりし当時の記憶を、工学部50年史などの資料や同輩の助けを借りて脳裏から思い起こし、機械工学科1回生の立場から西代時代を回想して見ようと思う。

(注:実際は水笠通の町名に位置するが、昔、今の新長田駅より北を西代村と云い、かつ明治43年(1910年)に開設された山陽電鉄西代駅の名が通用し易い)

1.西代から松野を経て六甲台へ移転
1−1.

西代学舎の戦災
 旧制神戸高工校歌の一節"赤き甍の鳳雛は立ちて世界に雄飛せん"と歌われ、赤い屋根を頂いた大正10年(1921年)設立の西代校舎は、太平洋戦争の激しさを増す中で、法令改正により昭和19年(1944年)に旧制の神戸工業専門学校と名称を変えたが、昭和20年(1945年)3月17日未明の米軍機による神戸大空襲で、土木科など一部の建物を残して全焼した。

【参考】高工の初代校長は、六甲台にある現工学部玄関横に銅像として建つ広田精一先生である。銅像の足元に遺されている石碑に刻まれている廣田先生の教育理念「SPARSAM」(注:倹約、省エネと訳す)と「規律」「継続」「執守」の精神は、今日に於いてもエンジニアの心得として含蓄のある教えとなっている。

1−2.

松野学舎へ
 焼けてから4年後に、総合大学として神戸大学が発足、初代工学部長になられた城野和三郎先生の話によれば、西代学舎が焼失して直ぐの昭和20年(1945年)4月23日に旧制私立滝川中学を借用したが、当時の文部省から舞鶴海軍工廠への移転話が持ち上がった。これを聞いた阪神工業地帯の一翼を担う神戸市が猛反対して、昭和21年(1946年)5月10日に神戸市から空き家になっていた旧制市立松野実業学校の提供を受けて曲がりなりにも落ち着いて勉強する場を得たと云われる。この時代を、いわゆる「松野時代」、学舎を「松野学舎」と呼んでいる。

1−3.

西代学舎へ
 昭和24年(1949年)5月31日発令の国立大学設置法の施行により、工専(以下、旧制を省略)は神戸大学に包括されて工学部となり、西代学舎の焼け跡にバラック的な木造校舎建設を着工した。先ず、昭和25年(1950年)2月17日に機械工学科教室と機械実験棟が、次いで電気工学科、工業化学科教室及びそれらの実験棟が竣工した。戦前・戦中に学んだ学生にとっては西代時代の再興であり、機械工学科1回生にとっては再びの西代時代に初めて足を踏み入れた最初の学生となる。しかし、これ以上西代学舎が受け入れる土地は余りにも狭く、建築学科、土木工学科は六甲台に移転する迄ずっと松野学舎で学ぶことになった。

1−4.

六甲台へ(松野・西代時代の終焉)
 この頃、松野・西代学舎だけでは、工学部の機能を発揮するには敷地が狭く拡張も出来ない為に移転の模索をしていた。先ず、尼崎市が武庫川河畔の土地提供を申し出て、工学部がその気になり文部省も賛成したが、紆余曲折の中でかねてから県有地および一部民間地を接収して連合国進駐軍の軍人・軍属住宅地としていた「六甲ハイツ」(今の六甲台)に目をつけていた神戸市と大学側が、世間が揶揄する「蛸の足大学」を解消すべく、進駐軍の撤退後、兵庫県や文部省に働きかけて、1期工事を昭和35年(1960年)10月に着工、翌昭和36年(1961年)夏に一部が竣工、同年8月31日に機械工学科の移転を皮切りに昭和37年(1962年)8月31を以て工学部の全学部が移転完了し、松野・西代学舎は廃校になり、松野時代は終焉を迎えた。

2.工学部機械工学科1回生の状況及び工専(機械科・精密機械科)との併存期間の状況について
       (付表「工専・工学部併存期間の概略表」を参照)

 ●P9は工専精密機械科の昭和25年(1950年)卒業生の略、P10は同じく昭和26年(1951年)の卒業生の略、M@は工学部機械工学科1回生を示し昭和28年(1953年)卒業生の略である(機械クラブが使用する略号を拝借)が、ここではP9、P10は工専生、M@は比較される工学部機械工学科1回生の略である。
2−1.

入学試験
 日にちは忘れたが、M@は、昭和23年(1948年)12月に前年から実施されていた、現在の「大学入試センター試験」と同じような文部省作成の「進学適性検査」を、そしてT期校として翌昭和24年6月7日と8日の2日間に「入学試験」を松野学舎で受験した。入学試験が6月になったのは、1−3項で述べたように、国立大学設置法の公布が昭和24年(1949年)5月31日であったからである。
 機械工学科の募集人員は40名で40名を合格させ、修了者は33名と云われているが、実際は、入学時のメンバーは33名で、卒業まで同じ顔ぶれの33名であった。入学者が公表合格者よりも7名少ないのは、他の大学に進学したなどの個人事情や、規定水準以下の学力不足による不採用があったのかも知れないが、当時の学生にとっては未だに謎である。

【参考】神戸大学卒業者名簿(昭和52年度版)』によるM@の卒業者数は33名で、その出身校別内訳は、神戸工専14、大阪工専1、姫高4、六高1、新制高校12、旧制中学1名である。

2−2.

教養課程(姫路・御影分校)
 入学した年の昭和24年(1949年)6月、教養課程として姫路分校と御影分校(昭和25年4月までは住吉分校と呼称)が設置されていたが、同昭和24年7月11日に入学式が行われ、翌日から夏休みに入った変則的なカリキュラムとなった。理由は判らないが、M@新入生は、これを総合大学としての初経験による大学側の準備不足と解釈していた。
 同昭和24年9月、大学側から通達があったわけではないが、実績から判断して、須磨区を含む西側の居住者は姫路分校で、須磨区を含まない東側のそれは御影分校で学ぶことになる。そして、2年次の昭和25年(1950年)10月に、専門課程を学ぶべく松野学舎に移った。

2−3.

専門課程と教養課程の混合(松野学舎)
 松野学舎には、昭和22年(1947年)入学のP9は既に卒業しており、昭和23年入学のP10が3年生として在校していた。姫路・御影分校から松野学舎に移った工学部1回生全員は、その校庭で記念撮影をした後、M@だけが一番手として直ぐ、既に建設されていた機械工学科の教室および機械工作棟や実験棟がある西代学舎に移動して授業を受けることになった。
 当時の西代学舎は、戦災で焼け残った溶接・鋳鍛造棟および鉄筋コンクリート構造の旧土木棟を利用した事務棟、建設成った図書館、1階の建屋だけが残った旧本館を改修した機械工作実習棟(通称 機械工場)、そして新しく建った2階建て木造の機械工学科教室棟と機械実験棟が存在するだけであった。それから順次、昭和25年の末頃から昭和26年9月末頃にかけて、電気工学科、工業化学科の関連する棟が竣工して学生の移動が行われた。西代学舎の敷地が狭いために、六甲学舎が出来るまで、建築学科と土木工学科の1回生は松野学舎で勉強したことは1−3項で述べた。
 移った西代学舎の機械工学科の教室棟は、アカデミックな建物とはおよそかけ離れていた。粗末な木造で、学生はこれを「バラック木屋」と自嘲して呼んでいた。真新しい机と黒板が目についたが、小中学校の教室と同じだなと感じた。焼け残った溶接・鋳・鍛造棟には、当時の町工場でも見られない旧式のものばかりであったが、機械式プレス機、引っ張り・圧縮試験器、小型の電気炉や黒鉛るつぼがあったのを覚えている。名前を忘れてしまったが、専門職である先生の手入れが良かったのであろう、実習中に設備が故障することがなかった。実習時間に金床の上で先が平たい火挟みを作ったが、平たい部分が平行にならず苦労したことを思い出す。通称を機械工場と呼んでいた機械工作実習棟にベルト駆動式旋盤が数台あったと記憶しているが、電動式旋盤やフライス盤、更にホブ盤などが設置されたのは昭和26年から昭和27年に掛けてであったと思う。
 本来ならば、教養課程の期間は入学して直ぐの4月開始、専門課程に移る2年次の10月までの1年半であるが、現実は、前述のように入学年の昭和24年(1949年)9月から教養課程が始まったために、専門課程が始まる昭和25年(1950年)10月迄の1年1ヶ月では、カリキュラムの1年半に満たない。そこで大学側が考えたのが教養課程と専門課程の混合であろうか、専門課程が始まってから同年の年末までの3月間、独、仏語もあったらしいが、英語を主とした語学と数学の必修授業が松野学舎で行われた。英語は教養課程姫路分校から、数学は工専から派遣された先生が教鞭をとられたと記憶している。英語は、エドガー・アラン・ポーの短編小説『A Descent into the Maelström 』(大渦に呑まれて)の英訳が主で、当時の工学部学生の多くは難しかったと云っていた。試験は、有り難いことにペーパーテストでなくてレポートの提出で済んだので助かった。
 3ヶ月であったが、教養課程と専門課程の混合期間に、松野学舎をP10と機械工学科1回生が教室こそ異なるが時々共用する形態になり、同時に対人関係も松野学舎でお互いに顔が会うことになるので、これを松野学舎の間歇形共用共存期間と、ここでは名付ける。
 参考までに、遅れて松野から西代学舎へ移った電気工学科、工業化学科は、3ヶ月間を松野学舎で学んだため、完全形共用共存期間が3ヶ月であったと云える。P10が卒業してもなお松野学舎に留まった建築学科と土木工学科は5ヶ月の完全形共用共存を続けたことになる。

3.工専生の状況
3−1.

昭和22年(1947年)入学の工専生(P9)
 工専は3年間の就学で卒業するから、昭和22年(1947年)4月に松野学舎に入学したP9は昭和25年(1950年)3月に卒業することになる。従って、昭和25年(1950年)10月に姫路・御影分校から西代学舎に移ってきたM@と顔を合わす機会、即ち、間歇形共存も完全形共存も無かった。しかし、M@が入学から姫路・御影分校を経て西代学舎に来るまで、P9は松野学舎にいた期間がある。即ち、8ヶ月の制度的共存期間があったことになる。
 最近になって或るP9卒業生から聞いた話がある。西代の土地では、M@が移ってくる前に、戦災で焼失して1階だけになった3階建ての旧本館に、屋根を付けて1階建ての工作実習棟(通称、機械工場)に改修していた。当時の松野学舎に機械実習設備が無かったので、機械工場に設置されていた古いベルト駆動式旋盤を使ってフランジなどを作り、焼け残った鋳・鍛造棟の中で火ばしを作る実習をしたと云う。西代学舎に少しは匂いを残して去ったと云えようか。

【参考】P9は旧制大学に受験出来る最後の学生であった。これに誰も受験しなかったが、2年修了でP10と共に新制神戸大学を受験してM@になった者が1名、3年を卒業で受験してMA(機械工学科2回生)になった者が1名いる。

3−2.

昭和23年(1948年)入学の工専生(P10)
 M@が、P10との制度的共存期間は1年8ヶ月であり、間歇形共存期間が3ヶ月だったことは前述した。しかし西代学舎と松野学舎との道程は僅か500mである。M@が西代に移ってからP10が卒業するまでの5ヶ月の間、随時ではあるが、各種の部活動に、リクリエーションになど、個人および団体を問わず一緒になって行動したものである。
 昭和26年(1951年)3月、P10の卒業をもって工専制度が終了した。同年3月7日に、松野学舎で工専卒業式兼工専→工学部移行式が行われたが、松野学舎の講堂が狭かったためか、工学部の学生は呼ばれなかった。

【参考】P10は、1年次を修了した時点で、新制大学を受験するか(例えばM@になるか)3年次を卒業するかの選択があった。現実は、14名(うち1名はP9より)がM@を選んだ。なお、P9、P10とも大学受験に落ちても元に戻れると聞いていたが、実際は、全員合格であった。しかし、工専を卒業して大学に入ったわけではないので、大学を途中退学した場合の資格がどうなるかは、入学者全員が大学を卒業したので実例が判らず、検討課題になるだろう。 また、工専残留者は、早く社会に出るとか、家業を継ぐとかの我が道を行く考えであったので、大学受験には無関心であったようだ。

4.おわりにあたって
 

 機械工学科1回生は学制改革の真只中にあって、先生の確保、カリキュラム、設備などの充実に苦労した時代に学び、特にアカデミックとは到底云えない学舎に通学した。今はどうだろうか、設備は質量とも充実し、優秀な先生、学生を有する名門大学に発展している。敬服、賞賛すると共に、羨望を感じるのである。しかし、我々の時代でも、先生は最大限の努力で大学の質的向上に奔走され、また我々も乏しい設備を利用して必死に勉強した。そして社会に巣立って行った。結果として高度成長時代を迎え、今でもその一翼を担ってきた自負と誇りを持っている。
 本文は、学舎、制度などを概説的に回想記述したので、先生との関係、交友関係、実験の思い出など、エピソード的な記述がないので面白みに欠けていると思うが、工学部ならびに機械工学科誕生時の状況を、共存した工専生との関係を含めて回想した。少しでも知っていただきたいと思っている。
 なお、当時の写真などを、「神戸大学工学部機械工学科1回生」のタイトルでホームページに載せているので、下記のURLを開いて頂ければ幸甚である。
http://ktcm1.main.jp/index.html
                                     (終わり)




(付表:工専・工学部併存期間の概略表)
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寄稿日:平成26年(2014年)7月4日 座01−01