新川崎重工がスタートした1969年に入社した。 東海道新幹線がスター
トして既に5年が経っており,斜陽産業と言われていた“車両”を特に手がけたかった。 それから36年間車両一筋の会社生活を送った。 車
両には100年以上の歴史があるが,その1/3に関わったことになる。
米・中に進出してからの20年間はまさに苦節の20年間であったが,今では米国に生産工場が2拠点あり,2012年までの仕事を受注している。
また,中国における260〜300km/hの高速車両はすべて当社製である。 これらの事業推進を通じて,地球環境保全と省エネに協力できた,
と考えている。
入社したときは台車設計を強く希望していたが,製造部生産技術所属となったため落胆した。
しかしながら,新製品開発時期にあたっており,ダンプトラックとクレーンを開発するよう指示があったため,これに乗ることにした。 門型
クレーンの大型化に成功した後,油圧式の独自大型門型クレーンを作ることになり,このときは3ヶ月間位は家にも帰らず仕事に熱中したも
のである。 完成したときの喜びは大変なものであった。
これらの事業からはその後撤退したため,また車両部門に戻ることとなったが,他事業部での仕事は大きな財産になった。 これが1回目
の“岐路”であると言えるかもしれない。
入社して4年目に米国のコンテナターミナル調査のための出張があった。 1ドル360円の時代のことである。 この時のニューヨークの印象
は忘れることができない。 世界貿易センタービルの横のヘリターミナルからヘリコプターで視察したが,“主要大都市”,“生産工場”,
“大規模農場”,“公園”などにカルチャーショックを受けた。 そのとき,いずれは米国でも通用する技術者になろうと思った。
1974-1985年は車両の研究と実践に打ち込んだ時期である。 現在の原点車両とも言える,ステンレス製で超軽量化されたニューヨーク地下鉄
車両に対して,初めてFEM解析を行い, ひずみゲージを貼りつけた実験も行って,両者を比較した。
1985年にこの成果を英国で発表して欲しい旨の依頼を受けたが,ちょうどそのときに米国への出向を命ぜられ,米国行きを選択した。 出向の
目的は,米国での地下鉄工場の立ち上げであり,当時はまだ係長だったが工場長として赴いた。
1995年1月,部長のときに3回目の米国行きを命じられた。 輸送量増を狙って,二階建て
車両が計画され,これを当社が受注したが,車両設計に通常の二倍手間がかかるうえ,仕様変更の繰り返しが多く,受注価格ではとても生産
できないため,「米国に行って決着をつけよ」と命じられたものである。 これはすさまじいプロジェクトであり,結局決着がつくまでに5
年間かかった。 このような経験は二度としたくない,と感じる。
同時多発テロの起きた2001年9月11日には貿易センタービルの近くにいたため,ビルに航
空機が突っ込むのを目撃した。 それから2ヶ月経った11月9日にニューヨーク地下鉄の開所式があり,グラウンドゼロに入ったが,手を合わせて冥福を祈るしか
なかった。 貿易センタービルの誕生と臨終に立ち会ったということが言えるだろう。
最後に
・ 現在の日本は環境・エネルギ関連製品を 提供し,それをビジネスに乗せるよう努力
すべきであろう
・ バブルがはじけて15年経ち,日本は低成 長に慣れてしまった感がある。 バブルを
経験していない人がこれからの企業を背 負うことになるが,
過去の経験に裏打ちさ れた「日本は成長できる」という信念を持って企業を牽引して行って頂きたい。 =以 上=
|